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奇蹟の四人の足跡

掲載: 2002/06/06

ソース: 『bounce』誌 232号(2002/5/25)

文/湯浅 学

ハッピーエンドの思い出話



 まだ、音楽ソフトの9割以上が塩化ビニール盤とカセットテープだった20年ほど前、俺のうちに遊びに来た高校1年生の男子が突然言った。

 「昔、ハッピーエンドってバンドがいたんですか? 日本に」

 そのころ、はっぴいえんどの名前は、YMOや大滝詠一『A LONG VACATION』に関して語られるときにしばしば挙げられていた。当時、はっぴいえんどのLP『はっぴいえんど』と『風街ろまん』は、店頭を探せばSMS盤が入手可能だったがカタログ上は廃盤、ベルウッドからの『HAPPY END』『CITY』『ライブ!! はっぴいえんど』『シングルス』はオーダー可能の現行盤であったと記憶している。いずれも、中古盤店でなら(その気になれば)すぐに入手可能だった。

 「聴いてみたいの?」

 「えー、持ってるんですか? すごく聴きたいです」

 高1男子は静かに興奮していた。最近、佐野元春のファンになり、佐野がラジオではっぴいえんどの素晴らしさを語るのを聴き、気になっていたのだという。

 俺はそのとき『風街ろまん』をかけた。高1男子は黙って聴いていた。その高1男子をうちに連れてきた俺の女友達は「ひさしぶりだなあ」と何度も言った。その女友達と俺は、はっぴいえんどばかり聴いていたあのころのことや、俺が高校時代と浪人時代にはっぴいえんどやはちみつぱいの曲をレパートリーにしたバンドをやっていたことなど、昔話をした。昔話といっても7〜10年前のことだった。とりとめのない思い出話をしているうちに『風街ろまん』が終わった。高1男子がぽつりと言った。

 「佐野元春よりいいかもしれない」

 「他のアルバムも聴く?」と俺。

 「いや、いいです。買ってからの楽しみが減りますから。今回はこれを買って帰ります」

 高1男子は『風街ろまん』のジャケットを手にしながらそう言った。いますぐにでも俺のうちから出て行きたがっているようだった。

 あれからその高1男子とは逢っていない。伝え聞くところによれば、あの後しばらくはっぴいえんどしか聴かなくなったという。生きていればあの高1男子もすでに35歳か。

これ、日本語かよ?

 はっぴいえんどは現役時代、別に大ヒットをとばしたわけではない。とくに有名だったかというと、そうとも言い切れなかった。レコードを買って持っている奴の数となると、吉田拓郎や泉谷しげるの20分の1だった。モップスが“月光仮面”をヒットさせて復活したり、ガロが“学生街の喫茶店”で有名になったりしていたころ、はっぴいえんどは少数の熱心な支持者によって、ゆっくりとその存在と音楽の素晴らしさが伝えられていったという印象が強い。

 レーベルがURC〜ベルウッドだっただろうか? フォークのようでもありロックのようでもあり、どちらともつかないのでよくわからないと思う人が多かったからだろうか? 「はっぴいえんどは何を歌っているのかわからない」という意見をよく耳にした。実際、『街風ろまん』と大瀧詠一のファースト・アルバム『大瀧詠一』を始めて聴いた友人は、俺に「これ日本語かよ?」と問うたものだ。しかし、その友人は「この人たちのLP、他にも持ってるの? 持ってるんだったら貸してよ」と言った。「これ、日本語かよ?」とは、褒める言葉だったのだ。<血塗れの空を玩ぶきみと、こかこおらを飲ん>だり、<摩天楼の衣擦れが、舗道をひたすのを見>たりとは、いったいどういうことなのか?と誰もが思ったが、思ったあとに、それを現実として求めたがるために嫌悪感を抱くものと、言葉の作り出す不可解なイメージに未知の広がりを感じて喜ぶ者と、はっぴいえんどの歌詞に対する評価は大雑把に言えばこの2つに分けられた。ロックにしては小賢くて気取っている軟弱な音楽であるとして、ハードでニューなもの以外はロックとは考えられない人々から、はっぴいえんどはひどく嫌われた。<日本語のロック論争>というものと関係なくはなかったが、それはまた別のものだった。

 遊園地が<そっぽ向>いたり、古い茶屋の店先に舞い降りてきた静けさが<誰かさんとぶらさが>ったり、都市が<緋色の帆を掲げ>たりするとは。いったい<のっぴきならぬ虹>や<飴いろの雲>の<浮かぶ驛の沈むホーム>はどこにあるというのだ……と、<雨に病んだかわいたこころ>の持ち主たちは思うばかりであった。

 以前、吉野金次氏(『風街ろまん』のレコーディング・エンジニア担当)にインタヴューしたとき、はっぴいえんどのどこにいちばん惹かれたのか?という質問に、吉野氏はこう答えた──「リズムに対するこだわりですね」と。4人ともに、リズム・アレンジ、リズム・セクションのサウンド、言葉とリズムの関わりなどにおけるこだわりは特別であったという。はっぴいえんど後の細野晴臣と大滝詠一の作品におけるリズム/ビートの探求ぶりから遡って想像することもできるだろう。「サウンド面のことよりもリズム面での柔軟な思考とひらめきの凄さですね。驚きましたし、感銘を受けましたね」と吉野氏は言う。実は、『街風ろまん』の音は、レコードやCDで聴ける音よりもっと太くたくましいものだったという。そこには<再生の限界>が関わってくるわけだが。

自主制作自主管理

 72年の夏ごろだったと思う。「遠くへ行きたい」というTV番組で伊丹十三がディレクションおよび出演した回、フラワー・トラヴェリン・バンドの“Satori”とはっぴいえんどの“夏なんです”の両方が続けてBGMとして使われたことがあった。夏の草原や山里の映像に、2曲ともふさわしい効果を上げていた。伊丹は〈日本語のロック論争〉を知っていて、わざとこのような使い方をしたのだろうか?と、俺はその番組を観ながら思った。

 歌詞は〈描写〉や〈主張〉をする。風景や思想や歴史や哲学の〈説明〉や〈解説〉として機能することはできても、それだけでは意識を拡げることはできないのではないか。はっぴいえんどの〈歌〉には、豊かな彩色が施されている。音響的な拡がりは、言葉による空気感の拡大ともシンクロしていた。

 はっぴいえんどにおける欧米のロックとの共鳴は、意図的なものであった。それは、ロックといえばアレとコレ、という公式化されたセンスからの脱却も意味していた。はっぴいえんどは、ハード・ロックやブルース・ロック、およびビートルズ傘下の手法のあれこれを封印することによって、日本における〈ロック的意識〉とでもいうべきものに揺さぶりをかけた。はっぴいえんどによる〈翻案〉によって、はっぴいえんどの楽曲をフィルターにして新たな洋楽体験の道を開拓した者は数知れない。現在のDJ的な水先案内人の役割を、他のどんなバンドよりも十全に果たしていたのもはっぴいえんどであった。はっぴいえんどは優れた演奏家であると同時に、優れた聴き手の集まりでもあった。それがまた、バンドの存在をそれまでになく弁の立つ集団として印象付ける一因になっていた。70年代初頭のバンドとしては珍しいほど、他の歌手のバックアップやプロデュースをおこなっているのも特殊であった。今ではさほど特別なことではないかも知れないが、メンバーそれぞれがプロデューサー志向を持っていたバンドとしても極めて珍しかった。その点においては、音楽制作システムに関わり活動していくうえで、それまでの日本のバンドマン的渡世法や職人的気質とはかなり異なった意識を当初から明確に持った人たちであった。戦略的とまでは言い切れないが、構造的変化を日本の音楽産業の中になんらかの形でもたらしたいとの志を持って、はっぴいえんどの4人は活動していた。ライヴよりもレコーディングに力を注ぐとか、作曲者が曲のプロデュースも受け持つとか、各自が変名を持つとか、サウンドにやたらこだわるとか。今なら、プロのミュージシャンならずともあたりまえに多くの人がやっていること、持っている意識だが、70年代初頭の日本では、決してこれらはありふれたことではなかったし、実践している人間は――とくにロック界では――数えるほどしかいなかったのだ。だからこそ、はっぴいえんどの4人の活動ぶりは特別なものに見えた。所属レーベルがURCというインディーズだったこともそうした、いわば〈自主制作自主管理濃厚なこだわり〉という姿勢を強化する要因となっていた。URCも、その後に移ったベルウッドも、上層部が決定した作品制作の基本方針をミュージシャンに従わせる、という意識が薄いレーベルだった。はっぴいえんどと同時代の日本の有名ロック・バンド、そのほとんどが大手レコード会社から作品を発表していたのはなぜか?ということを再考してほしい。

 72年のある日、ラジオの深夜放送で吉田拓郎が「はっぴいえんどに今度のレコーディングでバックをやってくれないかと頼んだところ、〈気が向いたらね〉と返答された」と言っていた。俺はそれを聴いて、やたらとうれしかった。はっぴいえんどは、一部では大いに人気があった。おそらくURCのなかでも売れたほうだったに違いない。しかしそれは、フォーク系ミュージシャンの人気者たちとは比較にならない数だったのだ。マイナーかメジャーという区分けは、はっぴいえんどの現役時代にはなかったように思う。そんな区分けができるほど、〈メジャーなロック〉はそのころの日本にはまだなかった。あえて言うなら、グループサウンズの一部がそれに該当したに過ぎない。はっぴいえんど登場以前に、すでに〈日本語によるロック〉はあった。そんなことはもちろん承知のうえでの〈日本語のロック〉。はっぴいえんどは、自前の言葉とサウンドの自覚的自主制作自主管理の先駆けであった。前例なしで、あえてそれを奨励するドン・キホーテたちだったのである。

文/栗本 斉

DISCOGRAPHIC
HAPPY END
はっぴいえんどを知るための3枚


はっぴいえんど
URC/東芝EMI(1970)

サイケやフォーク、ブルースなどを消化した〈ロック見本市〉のような内容ってだけではもちろん名盤には成り得ない。なにより松本の詞と、大瀧の不安定ながら麻薬的魅力を持つヴォーカルがあったからこそ。ラストのポエトリー・リーディングは、我が国においては30年早かった。


風街ろまん
URC/東芝EMI(1971)


不敵な表情のポートレート同様、自信に満ちあふれた最高傑作。スウィート・ベイビーな細野の“風をあつめて”の名曲っぷりは、もはや説明不要。ファルセットが官能的な“あしたてんきになあれ”や、お囃子からなだれ込む“はいからはくち”の濃厚なグルーヴはとにかくクール!


HAPPY END
ベルウッド/キング(1973)


別れ際に4人の残り火を燃え上がらせたのは、LAの空気とヴァン・ダイク・パークス。ドリーミーな“風来坊”、大瀧のヨーデル唱法が冴える“田舎道”など派手ではないが佳曲揃い。そして“氷雨月のスケッチ”という独特の湿度を感じる名曲をモノにして、鈴木の才能が一気に開花。


 
OTHERDISCOGRAPHIC
ALBUM
ライブ!! はっぴいえんど [Live](1974)

COMPILATION
Greeeatest Live! On Stage
Live On Stage
CITY〜はっぴいえんどベストアルバム
シングルス

『風街ろまん』のバック・カヴァーより

文/風博士

Discover America, Discover Nippon
 こんにちわアメリカ、こんにちわニッポン
 ――はっぴいえんどが映し出したアメリカの風景


 はっぴいえんどと洋楽との関係を考えたとき、まず欠かせないバンドにバッファロー・スプリングフィールドがある。はっぴいえんどを結成するにあたってメンバーがひな形にしたこのバンドの魅力、それをひとくちで説明するのは難しいけれど、才能あるキャラクターの集合体であったという点は、はっぴいえんどと共通している。それぞれの個性のブツかり合いから生まれる違和感までをも、みずからのポップとして昇華させてしまう大ワザ感。それは音楽理論では説明できないサムシングであり、じゃあビートルズだってそうじゃない?なんて言われたら、その時はバッファロー・スプリングフィールドでいちばん浮いていたニール・ヤングに登場してもらうのがいいだろう。実際、はっぴいえんどの初期のライヴ・レパートリーには“The Loner”もあったが、ヤングが持っていたアメリカ音楽への深い憧憬と、なにをどう消化してもアクがでる彼の個性とのせめぎあいこそが、唯一無比のアメリカン・ロックを生み出していた。それこそはっぴいえんどが憧れたマジックだったのかもしれない。そういえば、細野は彼のように歌おうとしていた時期もあったがうまくいかず、そのときに出会ったジェイムズ・テイラーの歌声が細野に〈歌のスタイル〉という点で大きなヒントを与えたというエピソードはあまりにも有名だ。

 バッファロー・スプリングフィールド、ジェイムズ・テイラー、そしてリトル・フィートとアメリカ西海岸のロックに注目し続けたはっぴいえんど。そんな彼らは、当時としてはまさにモダニストだったといえる。しかしそのなかで大滝詠一は、エルヴィス・プレスリーやフィル・スペクターといった黄金期のアメリカン・ポップスへの愛着を持ち続けていたわけで、こうした時代を超えたパースペクティヴがバンドに大きなスケール感を与え、音楽になんともいえない奇妙なファンタジーを生み出させていたのかもしれない。そして、そこには本人たちが冗談混じりに歌った“はいから・びゅーちふる”な愛憎があったのだ。
バッファロー・スプリングフィールドの68年作『Last Time Around』(Atco)
ニール・ヤング“The Loner”収録の69年作『Neil Young』(Reprise)
ジェイムズ・テイラーの70年作『Sweet Baby James』
リトル・フィートの73年作『Dixie Chicken』(共にWarner Bros.)

文/栗本 斉

HAPPY END and HAPPY OTHERS
 同時期に花開いた、はっぴいえんど的こころ


 なぜ、はっぴいえんどが、いまだ新しいリスナーを獲得し続けているのか? その秘密のひとつが〈趣味の良い〉音楽からの影響と消化(そのあたりは、前ページのコラムを参照)。はっぴいえんどと同時期ぐらいに活動していた、〈趣味の良い〉〈趣味の近い〉アーティストを何組か紹介しましょう。

 まずは、ムーンライダーズの前身、はちみつぱい。唯一のスタジオ盤『センチメンタル通り』は、グレイトフル・デッドのようなアーシーでスモーキーな空気を完全密封。“月夜のドライヴ”のようなゆったりとしたグルーヴには思わず溜息が洩れる。この頃、地方発のバンドにも注目すべきものが多く、はっぴいえんど解散後に現れた〈名古屋のはっぴいえんど〉ことセンチメンタル・シティ・ロマンスや、〈福岡のビートルズ〉ことチューリップなどが台頭。そんな地方勢力のなかでもオススメは、稲村一志率いる北海道のローカル・グループ、第一巻第百章の『Vol.1 Chap.100』。ブリティッシュ・ポップやアシッド・フォーク、カントリー・ロックに、絶妙のコーラスがコーティングされた内容は、まさに驚愕。ジェスロ・タルばりのサウンドで、独特の奥行きと浮遊感を醸し出している。

 はっぴいえんどには〈アンチGS(グループサウンズ)〉という気負いもあったようだが、そんなGSの残党たちにも、はっぴいえんど的質感を見つけることができておもしろい。ハプニングス・フォーやかまやつひろしなどはその代表だけど、意外なところでは沢田研二の『今 僕は倖せです』。全作詞曲を本人が手掛け、大野克夫と井上堯之のスパイダース組がサポート。アイドルの作品と思って聴くと地味だが、ロックとして鑑賞すれば、ジュリーがジョン・セバスチャンのような歌うたいに見えてくる。

 はっぴいえんどの魅力にハマったあとは、このような〈趣味の良い〉日本のフォーク/ロックをどんどん探してみるのもいいんじゃないでしょうか。

 
はちみつぱいの73年作『センチメンタル通り』(キング)
センチメンタル・シティ・ロマンスの75年作『センチメンタル・シティ・ロマンス』(ソニー)
稲村一志と第一巻第百章の73年作『Vol.1 Chap.100』(sky station)
沢田研二の72年作『今 僕は倖せです』(東芝EMI)

文/萌木 里

Four Pieces Of HAPPY END
 はっぴいな日々はまだまだ続く……



大瀧詠一

72年に発表された大瀧詠一のファースト・ソロ・アルバム『大瀧詠一』(ソニー)
 はっぴいえんどにあって、アメリカン・ポップス/オールディーズへのただならない想いを秘めつつ、日本語のロック構築に頑なに臨まなければならなかった立場にはそれなりの葛藤があった模様。が、それを、時の人として見事に蘇ったキャロル・キングのあり方を見て払拭。晴れがましくポップス主義を解禁したのが初ソロ作(72年)とセルフ・レーベル、ナイアガラ(=大きい滝)構想。そこで手の内を遺憾なく発揮していく。めざしたのは、ヒット・ソング工房、ブリル・ビルディングのシステムと、フィル・スペクターの向こうを張ったウォール・オブ・サウンド。旺盛なパロディー精神で、メロディアス・タイプとノヴェルティー・タイプを巧みに使い分けながら、ドリーミーな諸作を連発。奇抜なアイデアを絶やさなかったおかげで、一人で何役(多羅尾伴内、笛吹銅次など)もこなすハメに陥るも、メロディアス・タイプの究極『A LONG VACATION』(81年)で見事結実!


 

松本 隆
はっぴいえんど解散後、職業作詞家として歩み始めた時期の作品。75年に発表された太田裕美のファースト・アルバム『まごころ』(ソニー)
 歌は世に連れ、世は歌に連れ。世を歌で連れ出すことのできた数少ない作家のひとり。その意味で、かの筒美京平は、彼をもって〈最後の作詞家〉と称したのだろうか。〈風街〉とは、青山・渋谷・麻布を結ぶ透明な三角区。アスファルトを剥がせば、そこにかつての原風景が広がるという。心象風景に現れる路面電車と微熱少年。風街で話される日本語でもってロックを暗中模索、そして辿り着いた砦から、今度はメインストリーム=歌謡曲世界へと渡っていく。おのずと広がり出す心象地図と風景の輪郭。はっぴいえんどと同じ粒子のフィルムに、くすんだ色合いで彩りを添え、時には天然色にまで染め上げてみせる。“木綿のハンカチーフ”(75年)ほか太田裕美とのコラボレーションのなかから生まれた少年/少女像を、松田聖子の歌世界にあてはめる頃には、大滝、細野、鈴木もまた隣に。新世代との絆はKinki Kids、Tica、biceらと。

 

細野晴臣

73年に発表された細野晴臣のファースト・ソロ・アルバム『HOSONO HOUSE』(キング)
 スタイルよりスタンス。そのバランスにおいて常に絶妙であるべく、飽くなき世界周遊を続けている船長さん。はっぴいえんど解散後に、まず内省を進めたシンガー・ソングライター的境地を表しつつ、新バンドのキャラメル・ママを、アレンジ/プロデュースまで請け負う結社、ティン・パン・アレーに発展させ、幾多のセッション・ワークで職人気質を全開。ベーシストとして極めた段で、今度はエキゾチック・サウンドを思い立つことに。この、アーシーからフォーキー、さらにチャンキーへと加速する舵取りが船長さんならでは。以後、時代の要請としてのテクノロジー仕掛けのイエロー・マジック・オーケストラを結成・散開させながら、触手はヒップホップ、アンビエント、ミニマル、エスノまでも……と巡るパノラマ・コースにしばし戸惑わされるけど、一貫しているのはそのスタンス。独自の快感原則に基づいてコンセプトを生み出し、モア・ベターに組み立てていく。


 

鈴木 茂

7?年に発表された鈴木茂のファースト・ソロ・アルバム『BAND WAGON』(クラウン)
 永遠のギター少年(a.k.a.干し芋小僧)は、当初のヴェンチャーズ志向から、件のバッファロー・スプリングフィールドの洗礼を受けて、より幅広いプレイヤーとして開眼。はっぴいえんど後半で作家性にも目覚めたその柔軟な個性は、キャラメル・ママ〜ティン・パン・アレーでさらに大きく開花。センスと歌心に溢れるセッション・ギタリストとして、呼ばれた先々で名演を残すことに。その一方で、不敵にも単身渡米、リトル・フィートやタワー・オブ・パワーとの気迫セッションから未到のファンキー&グルーヴィー傑作『BAND WAGON』を成し遂げる。豪快なスライド・ギターと歌は、いまもっての語り草。なのだが、若気の至るべき境地は、躍動実践バンド、ハックルバックまで。以降、整合されたソフト&メロウに落ち着いて、アレンジャー・ワールドにどっぷり。それが近年、ふたたびバンド・ワゴンを駆り出しそうな気配。Tin Pan始動で、取り戻しつつある微熱に大きな期待が。

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