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第3回 ─ エタ・ジェームスの人生と音楽──Etta James rocks the house


掲載: 2002/09/19

キースが数十年来愛聴し続けてきた黒人女性シンガー、エタ・ジェームズ。今回の「SONICALY SPEAKING」では、彼女の波乱に満ちた人生と、唯一無二の音楽について紹介する。

文/キース カフーン



 今年3月、僕の長年の夢がかなうことになった。数十年間ファンを続けてきたアーティスト、エタ・ジェームスの実物のライブを見たのだ。僕の年代ぐらいの人の多くがそうであるように、エタ・ジェームスとの出会いは間接的なもので、僕の場合、エタのヒット曲のひとつ“Tell Mama”をジャニス・ジョプリンがカバーしたのがきっかけだった。

 僕が高校生だった頃の音楽ファンたちは、よく好きなアーティストの作品のライナーノートをチェックして、彼らの音楽的ルーツを探ったりしたものだ。例えば、ローリング・ストーンズのファンであればマディ・ウォーターズを発見したり、ビートルズ・ファンであればリトル・リチャードを新しく知ることになった。

 チキン・シャック(のちのフリート・ウッドマックのボーカル、クリスティン・マクビーがボーカルを務めていた)バージョンのエタ・ジェームスの楽曲“I'd Rather Go Blind”で彼女を知った英国人も少なくない。このバージョンでは、彼女自身も製作に加わっている。何年か後、この曲はロッド・スチュアートのアルバム、『Atlantic Crossing』の中で、これまたすばらしい演出のもとで、再生を果たしている。

 ローリング・ストーンズも彼女のよきファンで、1978年のツアーでは、いくつかのオープニング・アクトを依頼したほどだ。それから、1984年のオリンピック大会でも彼女はパフォーマンスを披露している。最近のファンなら、このアーティストをクリスティーナ・アギレラ経由で知った人もいるかもしれない。というのも、ライブではエタの楽曲“At Last”を歌ったり、どれだけエタに惚れこんでいるかを公言したりしているからだ。この曲は、最近では映画やコマーシャルにも起用されていて、結果的にUKチャートに食い込むことになった。僕はこれらのカバーはどれも気に入ってはいるのだけれど、やはりオリジナルのエタ・ジェームス・バージョンほど、虜にされるものはない。

16歳で歌いはじめた―サンフランシスコの「不良少女」

 エタ・ジェームスの経歴は、実に波乱万丈である。1938年、ロサンゼルス南部にジャメスタ・ホーキンスとして産まれた彼女は、主に祖母の手で育てられた。貧しい家庭に育つ典型的なサンフランシスコの若者らしく、ギャングと混じって街を徘徊していた。見た目は非常にキツい彼女、色が浅めの肌の黒人で、いつも好んでどぎついメークを施し、髪は金髪に染めていた。麻薬を常用していた期間も長く、実際、1972年には裁判所の命令で、2年間更生施設に入れられたこともある。若いうちから悪さをする一方で、実はその頃から歌い始め、16歳のときにはピーチズ(Peaches)という女性3人組のメンバーのひとりとして、はじめての作品のレコーディングをしている。

 このグループは、ハンク・バラードのヒット曲“Work With Me Annie”へのちょっと卑猥なアンサーソング、“Roll With Me Henry”で、1954年のR&Bヒット第2位を獲得した。ただ、ヒット曲としては大成功とまでは言えないだろう。その当時ありがちだった、白人シンガーによるリメイク(この場合はジョージア・ギブス)で浄化され、和らげられ、そのうえタイトルも変えられた“Wallflower”という別バージョンのほうが、明らかによく売れたのである。

 彼女のほとんどのヒット曲はチェスレーベルからリリースされていて、すでに挙げたもののほかには、“All I Could Do Was Cry”、“Sunday Kind of Love”、“Something Got A Hold On Me”と“Stop The Wedding”などがある。実はきちんと報酬をもらっていなかったと、本人は公言することがあるが、伝え聞くところによると、チェスレーベルのレオナルド・チェス氏が、彼女が薬物を購入するのを恐れて、直接本人に支払わずに家賃を払っていたんだそうな。

彼女の音楽は、紛れもなくロックだった

 エタ・ジェームスは、かなり大柄の女性として知られてきたが、64歳の今となっては、膝の障害もあって、立っていることもままならない。僕がライブで彼女を見たときは、ゴルフカートのようなものに乗って登場した。しかし、座ったままでも、大声で唄い、ファンキーになれるのが彼女である。もちろん、今よりも大きかったときもある。報告によると、体重が300ポンド(約136kg)を越えた時期もあったそうだ。実はこの体重、遺伝性のものかもしれない。父親の顔を見ずに育った彼女は10代のときに、父親が実は伝説のビリヤードの達人、ミネソタ・ファッツであると母親に聞かされる。実際対面したときには、彼はそれを肯定も否定もしなかったが、エタ本人はそれを事実と確信した。エタは現在、息子たち──DontoとSametto──をバンドに迎えてパフォーマンスを続けている。その息子たちの父親にあたるのがアーティス・ミルズ、70年代はじめのころのエタのボーイフレンドである。薬物使用で一緒にいるところを逮捕され、罪をかぶった彼は、その後ハンツビルの監獄で8年間服役した。彼が釈放された後、テキサスのナイトクラブで偶然出会い、ふたりは結婚したのだ。

 薬物=ドラッグでどん底をみたエタだが、なんとか立ち直り、アラン・トゥーサン、クリス・ブラックウェル、ジェリー・ウェクスラーといった、友人でもありファンでもある力強い支持者たちの支援を得て、職業復帰することに成功した。それでもエタは、いつも自分独自の活動をしてきた。たいていの人は彼女の音楽をR&Bと呼ぶだろう。しかし、彼女の音楽は紛れもなくロックでもあり、「Rock and Roll Hall of Fame」(=ロックの殿堂)入りしているし、あのチャック・ベリーの曲(のいくつか)ではバックボーカルを務めたこともある。他には、カントリー、ゴスペル、ブルース、それからジャズも演奏する。どんな音楽であっても、自分のものにし、揺るぎない信念と情熱をこめて魂から聞かせる。それがエタ・ジェームスなのである。



Etta James - ディスコグラフィ <@TOWER.JP>

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