オンライン掲載:2001/11/15
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P.1/2
多様化するポップ・ミュージックの中、孤高の存在へ
文/出嶌孝次 |
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数字以外になにが変わったというわけでもなく、それでも確実に90年代というタームはアーティストたちそれぞれに重くのしかかった。そして、かつてはマイケルとともにきらびやかな時代を彩ったスターたちがこぞって失速していく。しかしマイケルは、みずから築き上げた栄光をそのままに保ち、軽やかに時代を跨ぐことに成功した。『Bad』からのシングルは、なお次々とチャートを襲い、もはやマイケル・ジャクソンの送り出すものは単に音楽ではなく、現象になっていたのだ。ただ、昇り詰めてしまえば、あとは確実に落ちていくだけだ、ということはマイケル自身もよく理解していたのだろう。それゆえに、91年1月に予定されていたアルバムは延期を重ね、決して踏み外すことなどできない最初の一歩には慎重で大胆な策が採られた。
ここまでの彼にぴったり寄り添っていたクインシー・ジョーンズの助力を断ち、当時の新鋭テディー・ライリーをプロデューサーに抜擢したのだ。オールド・スクール・ヒップホップをバックグラウンドにもち、80年代後半に自身のグループ=ガイでR&B界の流れを変えたテディーは、キース・スウェットやボビー・ブラウンにビッグ・ヒットを与え、〈キング・オブ・ニュー・ジャック・スウィング〉の名を欲しいままにする若き才能だった(マイケル脱退後のジャクソンズ『2300
Jackson Street』への参加歴もある)。ヒップホップのエッセンスを存分に盛り込んだシンセ使い、極度にハネを伴ったドラム・パターン、そこから生じるダンサブルな質感は、『Dangerous』と名付けられたマイケルの新作には必要不可欠な新しい血だったのだ。
ただ、前に〈慎重〉と書いたように、アルバムの半分はマイケル自身のセルフ・プロデュースとなり、ファースト・シングルにもマイケル主導の“Black
Or White”が選ばれた。スラッシュが参加した同曲は予想通りのヒットを記録する。アルバム・リリース前には、弟を厳しく非難した兄ジャーメインの“Word
To The Bad”も話題になったものの、タブロイド紙好みの話題から遠いところで『Dangerous』は成果を上げた。ヒップホップに代表されるストリート発信の音楽が台頭してきたなかにあって、マイケルの音楽はそれらと等しく機能することに成功したのだ。
90年代初頭マイケルに比肩する存在と目されたのが、ボビー・ブラウン、そしてMCハマーだったことを考えれば、よりブラック・ミュージックの時流を突き詰めていったマイケルの読みは正しかった。確かに大抜擢だったテディーの起用も、結果的には完璧な人選だったように思う。アルバムのハイライトとなったのは、間違いなく“Remember
The Time”や“In The Closet”といったテディー渾身のニュー・ジャック・チューンで、そこに過剰な展開はないものの、〈メロディーよりもビート〉という時代の要請を見据えたコンテンポラリーなものに仕上がっていたからだ。
さらにマイケルは、神格化された雛壇からみずから降りることさえした。93年にはTVの人気トーク番組〈オプラ・ウィンフリー・ショウ〉に出演し、より身近なスターであることを印象づけた。一方で、彼には欠かせない表現手段であるプロモ・クリップは豪華さのインフレ状態を辿り、マコーレー・カルキン他との“Black
Or White”、エディー・マーフィーとイマンが出演した“Remember The Time”、ナオミ・キャンベルと官能的な求愛を繰り広げる“In
The Closet”、NBAの神様マイケル・ジョーダンとMJ対決に興じる“Jam”……と、こちらはド派手な〈現象〉感を維持し続けた。その現象を補完するワールド・ツアーも好評を博していく。94年にはみずからのレーベル=MJJを設立し、ブラウンストーンや、甥っ子グループの3Tをブレイクに導いていく。あたりまえのように受賞歴は更新され、それはとめどない繰り返しで、MJの光はもはや翳ることすらないかのように思われた。 |
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